今年の春に出版されたばかりの本です。
書評で紹介されていたのだったな?
気になったので、早速図書館で借りてきました。
福祉論や障害者論とも、はたまた生物学ともちがう視点で『視覚障害者』について書かれています。
著者はもともと生物学者を目指していましたが、大学在学中に人文社会学分野の美学芸術学分野へ転向したという異色の経歴の持ち主。
『自分と異なる身体を持った存在のことを、実感として感じてみたい』というのが専攻を変えた理由だそうです。
研究対象として、五感のひとつであり人間が最も多くの情報を取り入れる『視覚』を遮られた身体を取り上げ、実際に視覚障害者と対話を重ね様々な経験を共にした結果をまとめています。
内容は、視覚障害者の空間認識・感覚・運動・言葉・ユーモアの五つの章に分かれています。
読み進むにつれて、視覚を補う必要が生じることで触覚の使い方や空間認識の方法など、他の感覚がここまで鋭敏になるのかと驚愕しました。
私が一番興味を持って読んだのは、『美術を鑑賞する』ということについて。4つ目の言葉についての章で詳しく述べられています。
というのも、2013年に水戸芸術館で『視覚に障害がある人との鑑賞ツアー』が行われたことが記憶に新しいからです。実際に参加はしませんでしたが、その世界では有名な水戸在住の白鳥健二さんという方の存在が気になっていました。
実際、この本の筆者もそのツアーに参加していたそうで、そのときの体験をもとにした考察が述べられています。
『視覚を持たない人が美術作品を鑑賞する』ことについてのキーワードは『他人の目で見る』ということのようです。
視覚の有無に関係なく、他人と経験を共有しながら鑑賞するのが『ソーシャルビュー』。
作品に解釈の正解があるわけではなく、『言葉』という道具を上手に使いながら、お互いの感覚をやりとりしながら作品を鑑賞するという行為。
オットによれば、現代美術というジャンルそのものが、鑑賞にそのような行為を求められるものらしく、たしかに家族で水戸芸術館に行くと、ひたすら喋りまくりながら見ることを要求されているような気がします。
でもねえ、自分の中にモヤッと湧いた感覚を言葉にするのってホント難しいんです。
とっかかりは『面白い!』とか『これは好きじゃないなあ』とか『これ、買ってうちの廊下の壁に飾ってみたいよね?』なんてとりとめもない会話から始まる感じでしょうか…。
それでも、いろいろな言葉を使って自分の感覚を喋っているうちにだんだんと自分の中の『モヤッ』が言葉でも表現できてくるような気がします。
子どもも、語彙が少ないながらも結構ナマイキな感想を出してくるので侮れません。というより子どもの方が素直な感覚をもっているのか『へえ!ほお?』という言葉が出て来るような気がします。
多分慣れなんですよね。何度も経験し意識的に言語化するトレーニングをすることで、言葉を使って鑑賞することが巧くできるようになるのかもしれません。
視覚障害者の人々は、日常的に言葉によってお互いの感覚をやりとりしているわけですから、そのような能力は視覚に頼っている我々よりは飛躍的に優れているということですね。
『見る』という行為や言葉の力などいろいろと考えさせられる本でした。