障害者と笑い【読書メモ】
博士論文を加筆修正して本にしたものだそうです。
文章がね、難しいというか読みにくいというか…。いや、正確に書こうとするとこういう文章になるんだよね。きっと。
わかりやすくキャッチーに書かれた物をななめ読みばかりしているのでそう感じるだけなんだと思います。いつものようにさらっと読もうとしたら何が書いてあるのかちっとも分からないという…。
こんなんじゃ読んでも何も残らないよなーと反省したので、全体をざっと読んでからから少し寝かせました。
数日してから気になるところを拾い読みしてみたり、もう一度『まえがき』『あとがき』を読んでみたり。はたまた『注』を読んでから逆引きで本文に戻ってみたり…と、格闘しながら読んでいる最中。
ざっくりどのような内容かといえば、
『「障害者」がメディアを通じてどのように描写されてきたか』は、『社会において障害者がどのような存在として捉えられてきた』ということである。その変遷を『笑い』という視点で考察してみよう。
乱暴に要約してしまいましたが、もっともっと言葉を選び表現を細かく使い分けながら3倍くらいの分量で書いてあるんです。とにかく全編その調子。
初っ端から「障害者表象」「障害者観」「障害者認識」と、同じような3つの言葉が出てきて、しかもそれをきちんと使い分けていることに『注』を読んでから気が付くという有様。そもそも「表象って?????」といきなりつまずいておりますよ。
「障害者を笑う」「障害者が笑う」「障害者と笑う」ということを混同し続けた我々(健常者)は『障害者が笑いに関与する』こと全てを避けるようになってしまったということが最初に指摘されていて、そのベースの上に細かな論が展開されていくという構成。
「第1章:笑いの役割」で笑いやおかしみについての過去の研究に軽く触れた後、「第2章:障害者と笑いの関係」で障害者を笑いの対象にしてきた歴史、その反発が障害者と笑いを乖離させてきたこと、そして障害者がパフォーマーであるときの演者と観客の意識に続きます。
この章の中では、日本テレビのチャリティー番組『24時間テレビ』について触れられています。その可否や善悪などについて著者の判断が書かれているわけではなく、この番組に現代の「障害者表象」が色濃く現れていることを具体的に説明しています。
この番組が始まってから既に40年(!)がたっており、当時は日本中が好意的に捉えていたと思うし私も欠かさず見ていました。近頃では自分は全く興味がなくなりました(というよりむしろ見たくない)が世間ではどうなんでしょうね。
2016年にNHK-Eテレの『バリバラ』が生放送で裏番組的にぶち当ててきたことが世の中の目を大きく変えたのではないかと私は思っています。
ちょうど『感動ポルノ』と言う言葉が話題になっていたときで、我家でも子どもは「24時間テレビ」、大人は「バリバラ」が見たくて、交互に見ていたんだったかな。
本書ではこの『バリバラ』についても多くのページが裂かれています。
全身の福祉番組『きらっと生きる』が視聴者からの投書をきっかけに『バリバラ」へと形を変えていくプロセスを読むと、この20年くらいのあいだに福祉番組制作の視点も大きく変わってきたことがよく分かります。
そして最後の「第5章:障害者パフォーマンスと現代的コミュニケーション」では「障害者のパフォーマンス」を笑える/笑えない、のは何から生まれるのか?をじっくりと考察、最終的にはコミュニケーションと社会の多様性へと読む者の視点を持って行ってくれます。
『笑い』&『障害者』というタブー視されがちな題材を提供されることで、社会の多様性に対して自分がどのような感覚をもっているのか計るきっかけになりました。
ひとくちに『障害者』と言ってしまうことの乱暴さ。『障害』って何をさすの?。それって可哀想なの?
強度の近眼でも眼鏡があれば生活に支障がないように、全盲の人に必要なツールや社会の仕組みが十分に提供されれば、「障害者」って呼ばないで済むよね。
背の高い人と低い人の漫才コンビが、その差をネタにしたら笑えるけど、巨人症・小人症だったら笑えない?あそどっぐのお笑いだったら笑える?笑えない?
今の自分がそれら全てにフラットな気持ちで向き合えるとは到底思えませんが、多様性の受け止めレンジを少しずつ広げることは心がけ次第でできるようになると思っています。
それを邪魔するのが何でも画一的にまとめて垂れ流すメディアとSNSに代表される世論の流れ。
大勢が白と言っている中でひとりだけ「黒」と言ったら、いきなり抹殺されてしまう風潮がとっても怖い。
障害者論にしてもLGBTの話にしても、いろいろな意見を俎上にあげてあーでもないこーでもないと自由に話ができる世の中がいいのだけどなあ。