小学校の卒業式で【振袖+袴】という装いをする子が増えて話題になっているようですね。
『小学校、はかま姿で卒業 行政「式が破綻」自粛促す是非』 2019.3.15
『(ニュースQ3)小学校の卒業式、はかま姿は華美ですか?』 2019.3.13
『袴のため朝4時から美容院 小学校卒業式、服装どうする 2019.2.13』
40年以上も昔のことですが、私自身がが小学校を卒業した時は進学する中学校の制服で出席するのが習わしでした。
卒業生のほとんどは地元の公立中へ進学するのでみな同じ制服。私立校へ行く数人の男子だけ学ランのボタンが違っているくらい。
我家の子ども達は制服(標準服)のある公立小学校でしたので、私立中へ進学する子も含め全員が同じ服装で卒業式に出席です。
近所で制服のない小学校はどうなのかしら?
気にしたこともありませんでしたが、数年前に聞いた話では男の子はブレザーにスラックス、女の子はアイドルのようなチェックのスカートにブレザーというのが多いそうです。
それにしても、ただでさえお金がかかるタイミングなのに、たった1日のための装いにお金をかけるなんてナンセンスだわ。
儀式的な意味合いが強いとはいえ、あくまでも学校行事である卒業式でおしゃれ競争がエスカレートするのはどうなんでしょう?
私服なら普段着のレベルできちんとしていれば良いと思うし、そもそも皆が中学校へ進学するのだから中学校の制服でいいんじゃないの?
服装に学校や行政が口を出すなんて…という意見もあるようですし、可愛く装った我が子の晴れ姿を見たいという保護者もいるようですが、そこは様々な状況の子がいることに思いを寄せることも必要なのでは?
ごく一部の子がちょっと目立った服装をすると『じゃあ私も』となり、最後には『皆がやるからやらざるを得ない…』という同調圧力が働くのでしょう。
みんながほどほどにしておけば良いものを、もっともっと..とエスカレートするから目に余るようなことになっちゃうんだよ。
この件について、共感できる意見を見つけたのでちょっと長いけれど引用します。
■弱者へのこころ配りのない自由は、道徳的退廃につながる
これは、問題を膨らませて言えば、個人が自己の願望を追求するときに、他者への配慮はどうあるべきか、あるいは、社会の仕組みはどのように組み立てられるべきかという、政治哲学的なテーマにも関わってくる問題です。
人は願望をもって社会の中で生きています。しかし、その願望を実現する手段は、すべての人に平等に与えられているとは限りません。個人の能力以外の環境的要因も含めて、自分の願望をそれほど苦労なく満たすことができる恵まれた人もいれば、自分のささやかな願望ですら、たとえば金銭的な理由から我慢しなければならない人も大勢います。
この卒業式の袴の問題は、社会におけるこのようなルール設定の根本問題の一つだと思います。
卒業式は、すべての子どもにとって一生の思い出となる重大なセレモニーです。そのような場で、経済的な理由から服装について苦い思い、悲しい思い、悔しい思いをしている子どもがいたとしたら、そのような子どもに対する配慮は、教育の現場としてたいへん重要なことではないでしょうか。
他者への配慮という道徳的な行動原理は、「権力者」(この場合は、学校)によって押し付けられるべきではなく、多元的で寛容な社会を目指すならば、道徳に関する判断を上から押し付けることは危険であるという意見もあるでしょう。それぞれが道徳的に最善だと思う選択を保障することが、公正な社会として大切であるという意見もあるでしょう。
そのような考えは基本的に正しいと思います。しかし、私は弱者へのこころ配りのない自由は、道徳的退廃につながると思います。経済的に恵まれない家庭で、子どもにせがまれた親の気持ち、あるいはそのような親の気持ちを思って我慢する子どもの気持ち、このようなことに配慮して学校は、一種の〈ドレスコード〉として、不必要に華美な服装にならないように一定のルールを設定することは教育機関として正しい行いだと思います。
(2017.3.26 YAHOOニュース『小学校の卒業式、「袴(はかま)禁止」に賛否』より 全文はこちら)